院ゼミコラム

これから大学院生として研究をしていこうという人に向けて書いたコラムです。私の経験と反省o(^▽^)oを踏まえた上で書いてみました。心構えとして読んでいただければうれしいです。

1. 自分のWebサイトを持つ

大学院生には,自分のWebサイトを持つことを強く勧める.具体的には,ブログと固定ページ(自己紹介や研究業績など)を公開できる無料サービスを使って自分のサイトを公開しよう.無料サービスにはいくつか選択肢があり,WordPress(http://ja.wordpress.com/)はその選択肢の1つだ.

研究者サイトは,mixiやfacebookのようなソーシャルネットとは趣旨が違う.研究者としての自分の活動を記録し,研究成果を社会に公開することにより,研究者としての義務を果たすというのが,こうしたサイトの目的だ.

こうした研究者サイトの具体例としては,冨永敦子さんのサイト(http://tomi0730.com/tomi_blog/)や,向後研究室のサイト(https://kogolab.wordpress.com/)を参照しよう.具体的にどのような内容を公開すればいいのかがわかる.

なぜ研究者サイトを持つことが必要なのか.それは,自分がある研究に興味をもったときに,どのような行動を取るかを考えてみるとよくわかる.

研究会での発表を聞いたり,インターネットで論文を検索したりして,ある研究に興味を持ったときには,その著者名をキーワードとして検索するだろう.もし,その研究者が自分のサイトを持っていれば,そこにはその研究者の業績一覧や,これまでに書いた論文のコンテンツがまとめて公開されている.

また,もしその研究者がブログを書いていれば,どのようなきっかけでこの研究を始めたのかということも書いてあるかもしれない.今,どんな研究アイデアを暖めているのかということも書いてあるかもしれない.このような情報をまとめて読めば,訪問者は1本の論文で知りうるよりも,はるかにたくさんの情報を手に入れることができる.

CiNiiやGoogle Scholarなどのサービスによって,公開されている論文はオンラインで入手することができるようになった.しかし,それはその著者が書いた論文の一部分にすぎない.データベースに登録されていない論文もある.また,学会が一定期間,掲載済み論文を公開しない場合もある(会費を払っている会員の特権を保つために).そこで,著者自身が自分のサイトで論文を公開する意義が出てくる.

たいていの場合は,論文誌に載った論文の著作財産権は学会にある.しかし,非営利で,著作者自身が自分のサイトにそうした論文を公開することを認める学会が多くなってきている.したがって,論文の著作者は,出版元の学会に公開可能であるかどうかを確認し,もし可能であれば公開するのがよい.そうした情報を公開する場所として,自分のサイトを持つようにしよう.

それは研究者としての社会貢献でもあるし,また,自分自身をアピールするための大きなチャンスでもある.

2. 2年間は優先順位を変える

人は忙しい.職場でも,家庭でも,たくさんの役割と仕事が与えられている.そしてそれをこなさなければいけない.しかし,この2年間だけは,その優先順位を変えてみる.つまり,研究を第一の優先順位にしてみる.

研究を第一順位にするということは,単に,他の役割や仕事よりも研究を優先するということではない.常に研究のことを考えているということだ.職場にいても,家庭にいても,電車に乗っていても,出張に出ていても,常に研究のことを考えているということだ.

目の前で起こった出来事,新聞雑誌で読んだこと,インターネットで読んだこと,すべてのことを自分の研究に関連づけてみる.そんなふうにして,毎日を研究とともに生きる.食事をしているときも,スポーツをしているときも,本を読んでいるときも,常に研究のことを考え続ける.

そうすると,不思議なことに,研究の方からあなたに向かってほほえんでくるだろう.なんらかのインスピレーションが湧いてくる.研究のヒントをつかむことができる.それは,あなたが犠牲を払って優先順位を変えたことへのごほうびなのだ.

3. ゼミに出ることは息継ぎのようなもの

ゼミに参加するということは,水泳でいえば息継ぎをするということだ.息継ぎをしなければ泳ぎ続けられない.でも,息継ぎをしているときは実質的に少しも進んでいない.進んではいないけれども,そこで自分が向いている方向を確かめる.ゴールはどの方向か.自分が進んでいるルートはこれで適切なのか.そうしたことを確かめるためにゼミに参加する.

ゼミに出て何かを勉強しようなどと考えないこと.勉強は1人でやるものだ.ゼミに出て何か分からない専門用語があったら,家に帰ってから自分で調べることだ.勉強不足を反省しながら調べることだ.その時に知識は自分のものになる.ゼミで教えてもらおうなどと思わないこと.そんな時間はない.

ゼミの時間は,教員,先輩,仲間から自分の研究について叩いてもらう時間だ.世間の人は,あなたの研究について何も言ってくれないだろう.せいぜい「すごい研究をしているんですね」と言ってもらうくらいが関の山だ.それは,あなたの研究が他人事だからだ.あなたの研究を叩くためには,その研究について真剣に考えなくてはならない.わざわざ時間を割いてそれをやってくれる人は多くない.同じゼミにいる仲間はその数少ない人だ.

叩かれてこそ研究は進む.「その研究に何の意味があるのか?」と叩かれ,それにあなたが答えるたびにあなたの研究は大きくなり,ゴールに近づくだろう.

4. 統計分析の腕を磨いておく

統計分析は確かに面倒だ.勉強しなくてはならないこともたくさんある.避けて通りたい気持ちもわかる.

しかし,誰であれ科学的研究をする者は,データを収集し,それを分析することで何かを明らかにするしか方法はないのだ.科学の方法はそれしかない.

とすれば,今あなたの手元にあるデータが貴重なものであればあるほど,統計分析をしたくなるのではないか? 時間をかけ,手間をかけ,苦労して集めたデータを,ただの平均値で示していいのか? 「平均するとこれだけの違いでした」というような小学生でもできる方法で終わりにしていいのか?

あなたのデータを,さまざまな切り口で分析すれば,いろいろなことを明らかにする可能性があるとしたら,なぜそれをしないですませようとするのか? それはデータへの冒涜ではないのか? 自分が苦労して集めたデータを,自分の手で貶めているようなものではないか.

自分のデータが貴重なものであればあるほど,それを丁寧に分析しよう.何度もデータを眺めよう.たくさんグラフを描こう.いろいろな切り口から分析しよう.複数の統計手法で分析してみよう.

そのために統計分析の手法について日ごろから勉強しておくことだ.それは料理人が,日ごろ自分の道具と腕を磨いておくことに似ている.

5. 自分のスキルを磨いておく

研究するにはさまざまなスキルが必要だ.それは,論文を読んだり,専門書を読んだりすること「以外」の,あまり研究の内容に関係のないスキルだ.しかし,そのスキルが,実は,研究には「決定的に」重要なのだ.具体的には,パソコンのスキル,そしてデータ収集のための道具を使うスキルだ.

1つ目は,パソコンのスキルだ.Word, Excel, PowerPointのオフィスアプリ(マックユーザでは,Pages, Numbers, KeynoteのiWorkアプリ)は他の人に教えられるくらいに熟達しているべきだ.それは,チュートリアル本を1冊通して読みながら実習すれば,すぐにできることだ.

パソコンのスキルを教えてもらおうとしてはいけない.それは自分で習熟するべきことだ.若い人はそれだけ柔軟性があるのだから,自分より年を取った人よりもパソコンに習熟していて「当然」なのだ.パソコンを先輩に教えてもらおうとしてはいけない.逆に,先輩に教えるべきだ.研究に関しては,教えてもらう立場なのだから,せめてパソコンについては先輩に教えてあげられるように自分のスキルを磨いておこう.それが礼儀というものではないか.

2つ目は,データ収集のための道具を使うスキルだ.具体的には,デジカメの撮り方,ICレコーダでのインタビューの録音のしかた,ビデオカメラでの収録のしかた,大量の質問紙の印刷のしかたと綴じ方など.

デジカメはシャッターさえ押せば誰でも撮れる.だけど,撮らせてみるとみんなぶれている.デジカメの構え方やブレを抑える方法は,インターネットを検索すればたくさん出てくる.それを練習することだ.記録データとして写真を撮るときにぶれてしまったら最悪だ.しかもそういうチャンスは一度しかないのだ.

ICレコーダを,どのように置いたら音声がクリアに採れるのか,練習しておこう.ビデオカメラは,三脚の使い方をマスターしておこう.こういうことは,誰が教えてくれるわけでもない.自分でやることだ.

こうしたスキルを磨いておいて,先輩の研究の現場に入って,手伝うべきだ.そうやって研究の手順がわかって来る.自分のスキルを磨いておけば,現場で手伝いに加わることができる.もしあなたにスキルがなかったら,いても邪魔なだけだ.そして研究のしかたを学ぶ最大のチャンスを逃すことになる.そうならないように,いつでもスキルを磨いておこう.

6. 研究会に参加したら何をするのか?

研究会に参加したら何をするべきなのか? 発表者の研究についてよく聞き,ノートを取って勉強するのか? そうじゃない.研究会は授業ではない.勉強する時間ではない.では何をするのか?

  1. 「なんでこの人はこんな研究をしているのか」にフォーカスして聞く.それは何らかのニーズがあるからだ.そもそもなんでこんな研究を始めたのか.この研究で明らかになることがあるとどんないいことがあるのか.そこまでさかのぼって聞く.そうすると,自分がなぜ今自分の研究をしているのか,どんなニーズがあるからやっているのか,ということがわかって来る.

  2. 「この研究方法は私の研究にも使えるのではないか」にフォーカスして聞く.研究者はさまざまな手法使って研究を進める.ありきたりの方法もあるだろうし,特殊な方法もあるだろう.目的に合っている方法もあれば,まったくミスマッチな方法を使っている場合もある.その方法にフォーカスして聞く.自分の使ったことのない方法があれば,具体的な手順について良く聞く.そして,自分の研究に使うとすればどう使えるだろうかということを考えるのだ.

以上の1と2のようにフォーカスして聞くと,自然に質問がしたくなる.必ずそうだ.「そもそもなんでこんな研究をしているのですか?」という根源的な質問と,「実際にはどういう手順でやったのですか?」という具体的な質問が必ずしたくなる.そうしたら,まっさきに手を挙げるべきだ.躊躇してはダメ.

研究会は,いまやっている自分の研究を進展させるために参加するものだ.勉強するためではない.そう考えると,目の前で発表されている研究が宝の山に見えてくるだろう.発表を聞きながら,内職なんてできないはずだ.発表は教科書ではない.研究者が現在進行形で進めている真剣勝負なのだ.だからこそ,そこから学ぶことはいくらでもある.

7. 研究にはあなたの世界観が現れてしまう

研究するということは,あなた自身が問われるということにほかならない.研究というのは,誰かに頼まれてやるわけでもないし,ましてや,お金をもらうためにやる仕事でもない.ただ,自分がこのことを知りたい,そして,もしそれがわかったら,誰かの役に立つかも知れないということを動機づけとして行う行為だ.

だから,必然的に,研究には,あなた自身が世界についてどう考えているのかということが現れてきてしまう.あなたがどんな研究をやろうと思っているのかということを表明した途端に,それを聴いた人は,あなたが世界について考えていること,そのどこに興味をもっているのかということを感じ取る.

研究をやるということは自由意思でそれをやるということだ.だから,あなた自身が研究に現れる.それは隠しようのないことだ.

研究を道具的に使うと,それは研究ではなくなる.「道具的に使う」ということは,研究を何か別の目的の手段とすることだ.たとえば,研究を名声を得るための手段としたり,地位を得るための手段としたりすることだ.

それと同じように,研究を修士号や博士号を獲得するための手段としたとたんに,あなたがやっていることは研究ではなくなる.「どのような研究にすれば,修士論文になりますか?」とあなたが質問した途端,それは研究ではなくなるということだ.修士号は,あなたが研究をなしとげたということに対して,結果として与えられるラベルにすぎない.単なるラベルのために研究をすれば,それは研究ではなくなる.

修士論文「らしい」研究は,ある.でも,私はいつでも最終的に尋ねたい.「あなたは一体何のためにこの研究をしたのですか?」と.でも,たいていは聞くまでもなくわかることだ.なぜならば,あなたの研究そのものが,あなたの世界についての考え方自体を明らかにしているからだ.

それでも,一体何のためにこの研究をしたのか,ということを私がしつこく聞くのは,あなたの研究に対する姿勢を再確認しておきたいからなのだ.

8. 研究のための学術書の読み方

先行研究を調べるためには,自分の研究に関連のある,論文と学術書を探して読まなければならない.学術書でない一般書は読まなくていい.

学術書と一般書とを区別するものは,引用文献リストが載っているかどうかである.引用文献リストのない本は,どんなに自分の研究に関係が近くても,学術書ではない.したがって引用することもない.よって読まなくてもいい.せいぜい参考程度にしておけばいい.一般書から引用すると,自分の論文の質は確実に落ちる.

さて,学術書の読み方.

できるだけ速く読む.できればとばし読みをする.まずは目次を見る.関係のない部分の本文はとばし読みでよい.全部を精読する必要はない.精読している時間などない.たくさん読まなければならないからだ.一冊の本のうち,自分の研究に関係がある部分は全体のごく一部だ.まったく関係ない場合も多い.その,ごくわずかな関連部分を探すのだ.

そうやって一冊の本を読んだらすぐに,その「ハイライト」を作っておく.それは,本全体の要約ではない.全部を読んでいないのだから要約しようにもできない.また,箇条書きでキーワードを並べたものでもない.そんなことは無駄だ.そうでなく,A4判半ページくらいの「文章」で書く.文章で書くというところが大切.

ハイライトの文章では,全体をまとめるのではなく,その本が一番主張したいところを切り取り,一言でまとめる.そしてそれに加えて,自分なりの批判を書く.つまり,著者の主張のまとめとそれに対する批判を書く.そうしておけば,自分の研究論文を書くときに,その文章を研究史の中でそのまま使うことができる.

研究史では,「誰々(何年)は……ということを主張した.しかし,これには……という欠点(不足)がある」というフレーズで話を進めていく.そうして,「これまでなされた研究はたくさんあるけれど,いろいろな不足があるのだ,だから私はここでこの研究をする」という展開に持っていくわけだ.そのために学術書を読む.

9. 指導教員はあなたの研究を覚えていない

あなたの指導教員は、あなたの研究を覚えていない。テーマくらいは覚えているだろうけど、具体的にどういう研究計画で、どこまで進んでいるのかを逐一覚えているわけではない。たとえ、あなたがどんなにマメに報告したとしても。

もちろん覚えている指導教員もいる。それは、担当している学部生、院生の数が少ない場合が1つ。1人、2人ならば覚えていることができるだろう。もうひとつは、指導学生のテーマが研究室のテーマとして決まっている場合。この場合は、いわば教員自身のテーマなのだから、覚えていることができる。

しかし、担当している学生が多くて、しかもテーマがめいめいばらばらの自由テーマであるという場合は、覚えているのは無理だ。だからといって、「先生は私の研究のことを覚えていない。関心がないんですね。どうでもいいんですね」と責めるのはちょっと待ってほしい。

あなたが自分の研究についてちゃんと説明すれば(レジュメを作ってくるとさらにいい)、指導教員は、適切なアドバイスをくれるはずだ。「えーと、この因子分析の結果は何次元だっけ?」と聞かれても、(先生、覚えていないんだ)と思うより前に、さっと資料を出してくればそれですむ話だ。

打合せするごとに、アドバイスや指導の方向が変わったりすることもあるかもしれない。(ああ、この人は、自分が前に言ったことも忘れているんだ)と思うかもしれない。

確かにそういう場合もあるかもしれないが、そのたびごとに、新しい発想でベスト(主観的に)のアドバイスをしている可能性の方が高い。だから、たとえ前の助言とは違ったとしても、より良い助言として聞けばいい。最終判断をするのは、「あなたの仕事」だ。

逆に、ひとつひとつあなたの研究に注文を付ける指導教員を、イメージしてみたらどうだろう? いったい「誰が」研究をしているのか、わからなくなってしまうのではないだろうか。

「あなたの研究」をしているのは「あなた」だ。指導教員ではない。あなたはあなたの研究に誇りを持つ。あなたは助言を受ける権利を持っている。だけど、命令されることはない。助言を受けても最終判断はあなたの仕事だ。

あなたの研究を覚えていない指導教員は、その意味で、けっこういい教員かもしれないよ。

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